2017年、リバティ・メディアが企業価値約80億ドルでF1を買収したとき、業界の反応は必ずしも好意的ではありませんでした。視聴者数は年々減少し、「時代遅れのコンテンツ」という見方も根強かったからです。それから9年、株式時価総額は260億ドル超——年率換算で約16%のリターンです。2025年通期の売上高は前年比14%増の38.7億ドル、営業利益は28%増の6.32億ドル。2026年第1四半期の売上高は前年同期比53%増の6.17億ドルに達しています。何が起きたのか。そこで使われた手法は、実はモータースポーツ固有のものではありません。伝統的なIPを持つ日本企業にとって、そのまま参照可能な「型」です(金額は会社発表のドル建てを正とし、円換算は行いません)。
3.6億ドルで2110年まで——FIAが手放した100年分の商業権
この物語の根幹には、一度結ばれると当分ほどけない契約があります。2000年、FIA(国際自動車連盟)はバーニー・エクレストン氏に対し、一括金3.6億ドルでF1商業権を2110年まで独占的に付与する契約を結びました。110年分です。
当時としても破格の条件でしたが、この契約こそが、後にF1という資産が「安定した長期キャッシュフローを生む事業体」として評価される土台になりました。買収者から見れば、権利が期限切れになるリスクを実質的に考えなくてよい。IP事業の価値を決めるのは、コンテンツの魅力そのものだけではなく、その権利をどれだけ長く、排他的に保持できるかである——F1の事例が最初に示すのはこの点です。
バーニー・エクレストンという設計者
F1は1950年に第1回世界選手権が開催されましたが、当初は商業権が整理されていませんでした。転機は1974年、チーム側の団体FOCAが発足し、その代表に英国人実業家バーニー・エクレストン氏が就いたことです。
エクレストン氏が1981年の「コンコルド協定」で獲得したのは、テレビ放送権の交渉権でした。個々のチームやサーキットがばらばらに権利を売るのではなく、窓口を一本化して交渉するという構造をつくった。これは競技のルールではなく、ビジネスの構造を書き換えた仕事です。以後のF1の商業的成功は、すべてこの一本化の上に載っています。
2006年、プライベートエクイティの時代
商業権は2006年、大きく持ち主を変えます。独銀行BayernLBやリーマン・ブラザーズなどが保有していた株式を、プライベートエクイティのCVCキャピタル・パートナーズが買い集める形で過半数を取得しました。エクレストン氏はCEOとして残留しています。
この10年間のF1は、金融的な最適化が中心でした。安定したキャッシュフローを持つ資産として運用され、レバレッジをかけた投資回収が図られた時期です。ただし、この経営の下では観客層そのものを広げる投資はあまり行われず、視聴者数の緩やかな減少が進みました。資産としては優良、成長事業としては停滞——リバティ・メディアが買ったのは、この状態のF1です。
2017年1月、80億ドル。買った側が抱えていた不安
米リバティ・メディアは2016年末に買収に合意し、2017年1月、企業価値80億ドル超でF1(商業権を保有するDelta Topco社)の買収を完了しました。
ここで確認しておきたいのは、買収時点でF1が輝いて見えていたわけではないことです。視聴者数は減少傾向にあり、ファン層は欧州中心で高齢化していました。北米市場ではほとんど存在感がなく、業界内には「成熟を通り越して縮小に入った競技」という見方もありました。つまりリバティ・メディアは、割安な理由がはっきりしている資産を買ったのです。問題は、その理由を解消できるかどうかでした。
Netflixが変えたのは、競技ではなく観客だった
最初に効いた一手は、レースそのものへの投資ではありませんでした。Netflixのドキュメンタリーシリーズ「Drive to Survive(F1: 栄光のグリッドへ)」です。
このシリーズが描いたのは、マシンの性能でも空力設計でもなく、ドライバーやチーム代表の人間ドラマでした。競技を知らない視聴者でも、人物の対立や葛藤には感情移入できる。結果として、従来ほとんどファンがいなかった米国市場でF1人気が大きく押し上げられました。
ここには明確な設計思想があります。既存ファンの満足度を高めるのではなく、まったくの新規層を獲得しにいったという点です。しかもその対象を、放送権市場として最も価値の高い米国に定めた。コンテンツ投資の目的が、露出でもブランド維持でもなく、後述する放送権交渉の原資づくりだったと考えると、一連の打ち手の順序が理解できます。
ラスベガスという実験——レースを不動産事業にする
2023年、F1は米ラスベガスでグランプリを新設しました。既存のサーキットに開催権を売るのではなく、自ら都市型イベントを組成する形です。
特筆すべきは、自社不動産を活用した独自収益源(年間3,300万ドル規模)を生み出している点です。従来のF1のビジネスは、開催権料・放送権料・スポンサー料という3本柱でした。そこに不動産という第4の柱を加えたことになります。レース事業者が土地を持つという発想は、北米のプロスポーツがアリーナや周辺開発で収益を上げてきた構造と地続きです。
放送権の入れ替え——ESPNからApple TVへ
米国での人気拡大は、放送権交渉のカードに直結しました。F1は米国内でApple TVと契約し、従来のESPN中心の体制から移行しています。
この順序が重要です。まずドキュメンタリーで新規ファンを作り、市場価値を高めたうえで、放送権を競争入札にかけて契約金額を引き上げる。コンテンツ投資 → 需要創出 → 権利価格の引き上げという循環が、意図的に設計されていたことが見て取れます。
資本構成を単純にする、という地味な打ち手
見過ごされがちですが、事業構造そのものの整理も並行して進みました。2023年8月にアトランタ・ブレーブスを分離し、トラッキング・ストック体制への再編を実施。2025年12月15日には、音楽興行のライブ・ネイションを含む「リバティ・ライブ」部門を完全に分離しています。
結果として、リバティ・メディアの株式は、F1と2024年に買収したMotoGP(二輪ロードレース世界最高峰)を中核資産とする、きわめてシンプルな事業体へと整理されました。
これは派手さのない作業ですが、評価には直結します。複数の異業種資産が複雑な株式構造の下にぶら下がっていると、投資家は各事業を正当に評価できず、ディスカウントが生じます。「何を買っているのか分かりやすくする」こと自体が、株主価値を生む打ち手だったということです。
数字で見る現在地
ここまでの打ち手の結果が、冒頭に挙げた数字です。2025年通期のF1売上高は前年比14%増の38.7億ドル、営業利益は28%増の6.32億ドル。売上の伸びを営業利益の伸びが上回っている点に注目すべきで、規模拡大が単なる売上増ではなく収益性の改善を伴っていることを示します。2026年第1四半期の売上高は前年同期比53%増の6.17億ドルです。
F1・リバティメディア 要点数値
80億ドル→260億ドル超 2017年買収時の企業価値→2026年の株式時価総額(年率換算+16%)|+14% 2025年通期F1売上高の伸び(38.7億ドル)|+53% 2026年第1四半期F1売上高の伸び(6.17億ドル)
これは発明ではなく、移植である
ここまでの4つの打ち手——ドキュメンタリーによる新規ファン獲得、大都市型イベントの組成、放送権の競争入札、隣接領域(MotoGP)の買収による横展開——には、共通する特徴があります。どれも新しい発明ではないということです。
いずれも北米の主要プロスポーツで確立された収益化の型であり、NBAやNFLがすでに実証してきた手法です。リバティ・メディアがやったのは、それらを「欧州中心・放送権偏重」だったF1に、系統立てて移植したことでした。
この点が、他業界にとって最も重要な示唆になります。伝統的なIPの収益最大化には、必ずしも新技術や独創的なアイデアは要りません。他業界で実証済みの型を、体系的に、順序立てて持ち込む——それだけで閉じた市場が開かれたグローバル・メディアビジネスに変わり得るという実例です。
読み解きのポイント ①伝統スポーツIPの収益最大化は、新技術ではなく「他業界で実証済みの型」の体系的な移植で実現し得る ②コンテンツ投資は既存ファンではなく、放送権市場として価値の高い新規市場の開拓を狙う設計だった ③複雑な資本構成の整理そのものが、投資家から見た分かりやすさを高め評価向上に寄与した
逆風の芽——キャデラック、22戦、そして頭打ちの懸念
ここまでの成長を手放しで延長するのは早計です。いくつか注意すべき兆候があります。
ひとつは新規参入コストです。2026年に11番目のチームとして参入したキャデラックは、月間3,000万ドル規模の先行投資を強いられているとされます。コストキャップ規制下でも参入障壁が高いままであれば、チーム数の拡大による市場拡大には限界があります。
もうひとつはカレンダーです。2026年のレース数は前年より2戦少ない22戦に抑えられています。開催数は放送権収益とも直結するため、ここが増えないと成長の一部が頭打ちになります。そして、Netflixドキュメンタリーが牽引した米国での新規ファン拡大そのものが飽和すれば、成長率の減速要因になり得ます。
一方で、スポンサー面では2026年に新たにスタンダードチャータード銀行が加わるなど拡大は続いており、MotoGPの収益化がF1と同様に進めばもう一段の成長余地があるという見方もあります(アナリストの目標株価には現行から2割超の上昇余地があるとの見方が示されていますが、これは予測であり確定ではありません)。
ホンダの本格復帰と、日本企業への示唆
日本との接点も2026年に大きく動きました。ホンダが、アストンマーティンの専属パワーユニット供給元として本格復帰したのです。新開発の「RA626H」をチームと一体で設計する、いわゆる「ワークス」体制に入りました。
この復帰を「技術のショーケース」としてのみ捉えると、投資判断を誤ります。ここまで見てきたとおり、いまのF1は年率2桁で成長するメディア資産です。関与することの意味は、露出量では測りきれません。
日本企業にとっての示唆を2点に整理します。
- スポンサーシップのROI評価軸を広げる——「何人が見たか」という露出量だけでなく、「そのメディア資産自体がどれだけ成長しているか」を評価に含める。成長するプラットフォームへの早期関与は、露出単価そのものが将来的に有利になります。
- 自社の伝統IPに同じ型を当てはめてみる——長年続くブランド、競技、キャラクター、地域イベント。それらに対して、①人物ドラマ型のコンテンツ投資で新規層を開拓する、②収益性の高い新市場でイベントを組成する、③権利を定期的に競争入札にかける、④隣接領域を取り込む——という4つの問いを当てはめると、未活用の余地が見えてくる可能性があります。
主な出典
Liberty Media Corporation「10-K」(2026年2月26日提出)/Liberty Media Corporation「Reports First Quarter 2026 Financial and Operating Results」(2026年)/Liberty Media Corporation 2025年通期決算発表資料(SEC提出資料・2026年2月)/Huddle Up「How Formula 1 Makes Money: A Complete Business Breakdown Before The 2026 Season」/Formula1.com「Honda to make full-scale F1 return in 2026 as they join forces with Aston Martin」/ESPN「Honda unveils 2026 F1 power unit for Aston Martin in Tokyo」。財務数値は会社発表(SEC提出資料)に基づく一次情報です。アナリストの目標株価、キャデラックの先行投資規模、今後の成長見通しはいずれも予測・推計であり確定情報ではありません。
※2026年7〜8月時点の情報をもとに作成しています。監修:森英朗(グループ代表)。
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