ベトナムで新しい事業を起こすとき、選択肢は「自分で作る・自分で売る」だけではありません。2026年上半期、外国投資家によるベトナム企業への出資・株式取得は1,446件・62.2億ドル(前年同期比+89.5%)と急増し、ゼロから拠点を建てる以外の入り口が一気に太くなりました。月1,500〜3,000ドルのITエンジニア、普及率84.2%のデジタル消費基盤という「人と市場」も揃い、製造でも販売でもない第三の使い方——新規事業の実験場——としてのベトナムが現実味を帯びています。さらに2026年は制度の節目です。3月1日施行の投資法2025で拠点設立の手順そのものが変わり、1月1日にはデジタル技術産業法が施行されて半導体・AIが特別優遇業種になりました。ここでは、参入形態の選び方を軸に、人材の実勢価格・拠点設立の新しい手順・使える優遇枠を順に見ていきます。
なぜ「新規事業の場」なのか——人・デジタル・成長の三条件
第一に人材です。ホーチミン市のITエンジニア人件費は月1,500〜3,000ドルの水準で、日本向けシステム開発・QA・データ業務の委託(オフショア/BPO)で長年の実績があります。ただし2026年時点では、この「相場」を一枚で語るとほぼ確実に予算を外します。層によって値段が全く違うためです。
人材紹介各社の2026年給与調査を突き合わせると、テスター・QAは月500〜1,900ドル、バックエンド・フロントエンドはジュニアからシニアまでで月1,000〜3,300ドル。一方、経験7〜10年のシニアフルスタックは月3,300〜3,800ドル、AI/MLエンジニアやDevOpsになると月4,000〜4,500ドルに達します。つまり安いのはミドル以下で、AI・クラウド・アーキテクトといった上位層は日本の相場に近づいています。「ベトナムだから人件費が3分の1」という前提で必要なスキル層を積むと、設計段階で破綻します。
供給側の実感も押さえておく必要があります。ベトナムは年間約57,000人のIT系卒業生を輩出しますが、AI・機械学習・クラウドの専門人材は需要に追いつかず、転職時の昇給期待は一般職種で8〜15%、AI/ML・クラウドでは20〜35%とされています。採用リードタイムは要件が明確なミドル〜シニアで2〜4週間と早い反面、同じ速さで抜けていくということでもあり、リテンション設計は初日から必要です。
拠点都市の性格差も、コストと定着率に直結します。ホーチミン市は人材プールが最大でスタートアップ・外資の集積も厚い。ハノイは政府・大企業向けの案件経験が豊富。ダナンは規模は小さいものの給与水準が低く離職率も低いため、リモート前提の開発チームの受け皿として選ばれています。「まずホーチミン」と決め打ちする前に、必要な職種構成で3都市を比べる価値があります。
第二にデジタル消費基盤。インターネット普及率は84.2%(2024年)、電化率は100%(2024年)で、都市部の消費はスマートフォン起点で完結します。新サービスのテスト市場として、ユーザー獲得コストが相対的に低いのも魅力です。
第三に成長の勢い。2026年上半期の実質GDP成長率は+8.18%と、上半期として2011年以来の高水準。市場全体が伸びている局面では、新規参入者にも席が生まれやすくなります。
新規事業の場としてのベトナム・要点数値
月1,000〜3,000ドル ミドル以下のIT人材|月3,300〜4,500ドル シニア・AI/クラウド人材|84.2% インターネット普及率(2024年)|+8.18% 実質GDP成長率(2026年上半期)
確認ポイント 必要な職種を「ミドル以下(月1,000〜3,000ドル)」と「シニア・AI/クラウド(月3,300〜4,500ドル)」に分けて人件費を積んでいるか。上位層の採用が前提の事業計画なら、日本での採用と比較しても成立するか。3都市(ホーチミン/ハノイ/ダナン)を職種構成とコスト・定着率で比較したか。
太くなった第三の入り口:出資・株式取得(M&A)ルート
2026年上半期、外国投資家によるベトナム企業への出資・株式取得は1,446件・総額62.2億ドル(前年同期比+89.5%)に急増しました(国家統計局)。うち既存株式の取得が40.7億ドル、増資引受が21.5億ドルです。グリーンフィールド(自前設立)に比べ、既存の顧客基盤・許認可・人材をまとめて手に入れられるのがこのルートの利点で、立ち上がりの時間を1〜2年単位で圧縮できます。ただし後述するとおり、買収で取得した事業には法人税の優遇(新規投資プロジェクト向け)は適用されません。時間は買えても税優遇は買えないという点は、比較の初期段階で数字に入れておくべきです。
手続きのルールは2026年に入れ替わりました。現在のM&A承認は、投資法2025(第143/2025/QH15号・2026年3月1日施行)、政令96/2026/ND-CP(2026年3月31日・従来の政令31/2021を置き換え)、通達55/2026/TT-BTC(2026年5月15日・申請様式)の3点で動いています。M&A承認の申請が必要になるのは、主に次の場合です。
- 外国投資家が初めて持分を保有する、または外資比率が業種別上限を超えて上昇する場合
- 対象会社が外資にとって条件付き業種(政令96附属書I)で事業を行っている場合
- 既存の投資ライセンス(IRC)の所有構造が変わる場合
実務上ありがたい変更が一つあります。従来は申請時に実際の取引価格の開示が必要でしたが、政令96と通達55/2026により暫定の取引価格の開示で足りることになりました。価格を最終確定させる前に申請に着手できるため、交渉と許認可を並行させやすくなっています。
一方で、対象会社の登記業種が条件付き業種(銀行・証券・保険・電気通信・教育・物流・広告・不動産開発など)に該当する場合は、外資比率上限に加えて所管省庁の個別認可(銀行ならベトナム国家銀行、通信なら情報通信当局など)が必要になります。案件を見る順序としては、価格やEBITDAより先に対象会社のERC上の登記業種を1行ずつ確認するのが正解です。ここで条件付き業種が混ざっていると、想定していた出資比率が取れません。
そのうえで、財務・法務・労務のデューデリジェンスの質が成否を分けます。会計慣行の差、簿外債務、キーパーソン依存など、日本のM&Aとは異なる論点が多く、「安く見える案件」ほど注意が必要です。
確認ポイント 参入形態を「自前設立/出資・JV/買収」の3案で比較したか。買収候補のERC登記業種に条件付き業種が含まれていないか(含まれる場合、狙う出資比率は制度上可能か)。現地デューデリジェンス(財務・法務・労務・キーパーソン)の体制はあるか。
自前で立ち上げる場合:拠点設立の実務(2026年に手順が変わりました)
従来、外資の拠点設立は投資ライセンス(IRC)→ 企業登録証(ERC)の順に取るのが唯一の道で、あわせて3〜6か月を見込むのが定石でした。2026年3月1日施行の投資法2025(第143/2025/QH15号)と政令96/2026(2026年3月31日・署名日施行)により、この順番が絶対ではなくなりました。外国投資家は先にERCを取得して法人を成立させ、あとからIRCを取る「ERC先行」を選べます。先に法人格を得られるので、オフィスの賃貸契約、採用、口座開設の一部といった準備行為を早く始められるのが利点です。ただし投資方針承認(IPA)が必要なプロジェクトについては、ERCを先に取得できるかどうかの取扱いが政令上まだ整理されていないため、自社の案件が該当するかは事前に確認が必要です。
あわせて、工業団地・輸出加工区・ハイテクパーク・集中デジタル技術ゾーン・自由貿易区・経済区の機能区域内のプロジェクトには、新しい迅速化(ファストトラック)手続きも導入されました(投資方針承認が必要な一部プロジェクトを除く)。立地の選び方が手続き期間に直結する構造になっています。
一方で、ERC先行には注意すべき縛りと未整理の論点があります。複数の法律事務所が公表している解説では、次の点がリスクとして指摘されています。
- 設立日から12か月以内にIRCを取得する義務があります(政令96)。ただし期限を過ぎた場合の帰結(事業範囲の修正・ライセンス取消・解散のいずれになるか)が政令に規定されていません。ここは投資家にとっても許認可当局にとっても不確実性が残る部分です
- IRCが出るまで投資プロジェクトは実施できません。登記業種の追加、支店・駐在員事務所・事業所の開設もできません。したがってERC取得からIRC取得までの間に締結する契約には、停止条件と解除条項を必ず入れておく必要があります
- ERC申請時に、外資の市場参入条件を満たす旨の誓約を提出する必要があります。これにより外資参入条件の審査が、従来は社名・住所・資本金・法定代表者といった形式事項を3営業日で処理していた企業登録当局に移りました。実務上は追加説明や証拠の求めが発生し、ERC自体の処理が想定より長引く可能性があります(企業登録当局と投資登録当局の連携方法も現時点では明確ではありません)
そして最大の実務的な罠が資本金の払込期限です。定款資本は企業法によりERC発行日から90日以内に全額払込が必要で、この90日はIRCの進捗に関係なく走り始めます。ところが資本の受け皿となる直接投資資本口座(DICA)への送金は、通達06/2019に基づきIRCを根拠に行う建付けが残っており、法律事務所の解説でもIRC取得前のDICA開設は実務上の困難が生じ得ると指摘されています。つまり「払込期限のカウントは始まっているのに、送金する口座が作れない」という時間の挟み撃ちが起こり得ます。実務的な結論は明確で、ERC先行を選ぶ場合も、90日以内にIRCを取り切る前提でスケジュールを組むこと。払込を落とすと行政罰に加え、資本金の減額登記や出資比率の調整が必要になり、利益送金にも影響します。
期間の目安は、書類が整っていればIRCが15〜25営業日、ERCが3〜5営業日とされます。ただしこれは審査に入ってからの日数であり、しかもERC先行を選ぶ場合は上記のとおりERC側の審査が伸びる可能性があります。実際の律速は親会社の登記簿・財務書類の公証と領事認証、および条件付き業種の場合の所管省庁協議です。ここで数か月動くため、全体としては依然3〜6か月を見ておくのが安全です。なお税務申告義務はERC発行日から始まります。売上がゼロでも申告は必要で、IRC待ちの期間を「何もしない待機期間」と考えていると初年度から違反が発生します。資本金の額については法定の一般最低額はありませんが、IT・ソフトウェア分野では審査上の信頼性を確保する観点から、10万〜20万ドル程度を登記する実務助言が一般的です。
デジタル系の新規事業では、登記業種の定義が最大の分岐点になります。政令96の附属書Iは、外資参入が認められない23業種(報道、ニュース収集、調査・警備、公証など)と、条件付きの62業種(電気通信、銀行、証券、保険、航空、海運、エネルギー、不動産、教育など)を定めています。注目すべきは、従来の政令31から新たに「EC仲介プラットフォーム、ECを行うSNS、統合型ECプラットフォームの管理・運営」が条件付き業種に追加された点です。自社ECで自社商品を売るのか、他社を出店させるプラットフォームを運営するのか——事業モデルの一線を越えた瞬間に必要な手続きが変わります。ERC上の業種登録は、事業計画を書き終えてからではなく、事業モデルを設計する段階で専門家と詰めるべき論点です。
拠点の場所は、消費とテックが集積するホーチミン圏が第一候補になりやすい一方、政府・大企業向けならハノイ、コストと定着率を優先するならダナンという選び方もあります(前述の3都市比較)。
確認ポイント ERC先行と従来のIRC先行、どちらが自社の準備状況に合うか比較したか。ERC取得から90日の資本払込期限とIRC取得を同一スケジュール上で管理しているか。親会社書類の公証・領事認証の所要期間を逆算に入れているか。ERC上の登記業種が、自社の事業モデル(自社EC/プラットフォーム運営)と一致しているか。
2026年に効く3つの追い風——優遇税制・新法・サンドボックス
制度は締まる方向だけではありません。デジタル・技術系の新規事業には、2026年時点で具体的に使える枠が3つあります。
① 法人税の優遇(法人税法2025・第67/2025/QH15号)。2025年10月1日施行・2025年度の課税期から適用される新しい法人税法は、優遇対象業種を第12条2項(b)で列挙しており、ソフトウェア製品の生産、サイバーセキュリティ製品・サービス、重点デジタル技術製品・サービス、電子機器製造、半導体チップの研究・設計・製造・パッケージング・テスト、AIデータセンターの建設が含まれます。これらの新規投資プロジェクトには、標準税率20%に対して税率10%を15年間(第13条1項)、加えて最大4年間の免税とその後最大9年間の50%減免(第14条1項)が適用されます。
ここに実務上の重要な制約があります。この優遇は「新規投資プロジェクト」を前提としており、合併・統合・分割・所有者の変更・企業形態の変更によって取得した事業には適用されません。つまり既存企業を買収して手に入れた事業には、この税優遇は付いてきません。前述のM&Aルートは立ち上がりの時間を買えますが、税優遇は買えない——参入形態を比較する際、この差は数字で効いてきます。また優遇の適用は、申告方式で会計・請求書・証憑の制度を遵守している企業に限られ、維持には税務調査でR&D体制・ソースコード・実際に稼働している人員を立証できることが前提です。「実体のない開発拠点」では通りません。
② デジタル技術産業法(第71/2025/QH15号・2026年1月1日施行)。ベトナムが半導体とAIを国家戦略産業として位置づけた新法で、上記法人税法が参照する「重点デジタル技術製品」「電子機器製造」の範囲を定める役割も担います。半導体の研究・設計・製造・パッケージング・テスト、AIの開発、AIデータセンターなどが特別な投資優遇業種とされ、投資・税・土地の優遇に加えて、人材育成や研究に対する国家予算からの支援が制度化されました。税制と産業法が同じ方向を向いた2026年は、この領域で制度の追い風が最も強い年です。
③ フィンテックの規制サンドボックス(政令94/2025/ND-CP・2025年7月1日施行)。ベトナムで初めて、銀行分野の新サービスを本格展開前に試験できる法的枠組みが整いました。試験期間は最大2年(1年ずつ2回まで延長可)。ただし対象は①信用スコアリング、②Open APIによるデータ共有、③P2Pレンディングの3分野に限定されています。裏を返せば、この3つ以外のフィンテックは依然としてサンドボックスの外にあり、既存の許認可枠組みで組み立てる必要があります。自社の構想がこの3分野に入るかどうかは、事業計画の早い段階で確認する価値があります。
いま織り込むべき前提 ベトナムは投資法・企業法・EC規制・データ移転規制が毎年のように改正されます。実際、拠点設立の手順そのものが2026年3月に変わりました。特にデジタル系新規事業は、データローカライゼーションや外資ECへの課税強化など、規制の影響を直接受けます。規制監視を運用に組み込み、許認可ポートフォリオを年次でレビューする体制が必要です。また、政治局決議10号(2026-2030年)が掲げる「高品質FDI」への転換は、技術・イノベーション性の高い事業への追い風になります。
まとめ:ベトナムで新規事業を興す5条件
- 参入形態の3案比較(自前設立/出資・JV/買収)から始める——M&Aルートは+89.5%と急拡大中。買収候補はERC登記業種の確認が最優先
- IT人材はレベル別に積む——ミドル以下は月1,000〜3,000ドルだが、シニア・AI/クラウドは月3,300〜4,500ドル。3都市(ホーチミン/ハノイ/ダナン)を職種構成で比較する
- 拠点設立は2026年3月の新ルールで設計する——ERC先行を使う場合も、90日の資本払込期限とIRC取得を同一スケジュールで管理する
- 使える優遇枠を先に確認する——法人税法2025の10%×15年+4年免税+9年50%減免(ソフトウェア・半導体・AIデータセンター等/新規投資プロジェクト限定=買収では付かない)、デジタル技術産業法、フィンテック・サンドボックス(3分野限定)
- 規制監視の運用(データ・EC課税・業種制限)を最初から設計に入れる——ECプラットフォーム運営は条件付き業種に追加された
関連して読む:ベトナム財閥のビングループ(Vingroup)を徹底解説/ 数字で見る:ベトナムの市場データ(PROVE Global Data Hub)
主な出典
ベトナム国家統計局(NSO)2026年第2四半期・上半期社会経済統計(2026-07-03発表・GDP/出資・株式取得の件数金額)/VIR(2026-07・出資内訳 40.7億ドル既存株取得/21.5億ドル増資)/World Bank系列(インターネット普及率・電化率2024年=PROVE Global Data Hub反映値 2026-07-24時点)/投資法2025(第143/2025/QH15号・2026-03-01施行)、政令96/2026/ND-CP(2026-03-31・政令31/2021を置換/附属書I ネガティブリスト・ERC先行・M&A承認)、通達55/2026/TT-BTC(2026-05-15・暫定取引価格の開示)、通達06/2019/TT-NHNN(DICA送金の根拠)=法令原文および森・濱田松本法律事務所/DFDLの解説(2026年)/デジタル技術産業法(第71/2025/QH15号・2025-06-14公布・2026-01-01施行=半導体・AIの特別投資優遇)政府公報/政令94/2025/ND-CP(2025-04-29公布・2025-07-01施行=銀行分野の管理された試験制度・対象3分野・最長2年)政府公報およびベトナム銀行雑誌/法人税法2025(第67/2025/QH15号・2025-10-01施行・2025年度課税期から適用/第12条2項b=優遇対象業種、第13条1項=10%×15年、第14条1項=4年免税+9年50%減免、新規投資プロジェクト要件・合併等の除外)=ベトナム政府政策サイト(xaydungchinhsach.chinhphu.vn)および法令データベース(thuvienphapluat.vn/luatvietnam.vn/mitou.vn)の条文で確認/拠点設立実務(IRC 15-25営業日・ERC 3-5営業日・ERC発行から90日の資本払込・ERC日からの税務申告開始)は各法律事務所・会計事務所の2026年実務解説(Acclime/InCorp/Vanzbon)で照合/IT人材の給与レンジ・卒業生数・3都市比較は人材紹介各社の2026年給与調査(JT1/Talent JDI 等)/IT/BPO人件費レンジ・規制動向はPROVE現地支援実績に基づく(2026年時点)/政治局決議10号(2026-2030年FDI方針)報道(VietnamPlus・Dan Tri 2026-07)。数値は調査時点のもので、最新の一次情報をご確認ください。
※2026年7月時点の情報をもとに作成しています。監修:森英朗(グループ代表)。
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