問題の正体は「セルが作れない」ことではありません。作れても、米国の税額控除と欧州のトレーサビリティを満たす素材の組み合わせが足りないことです。LG Energy Solution、SK On、Samsung SDIというセル大手の背後では、正極・負極・電解液・セパレータで中国依存が残っています。IRAのForeign Entity of Concern(FEOC)ルールとEU電池規則が、この調達構造を書き換えつつあります。日本企業が触るべきは完成セルではなく、どの工程が非中国化しきれず、どこに日系素材・装置の余地があるかです。シェアの勝敗表より、適格BOM(部品表)の充足表のほうが経営判断に使えます。
当コラムで注目する用語
- FEOC(懸念外国事業体):米国のIRA(インフレ抑制法)で定義される、中国など特定国が実効支配する企業のこと。
- 正極前駆体(プレカーサ):電池正極材料を作る前段階の中間原料。ここの中国依存が最も高いとされる工程。
- EU電池規則:カーボンフットプリント開示やリサイクル含有率、デューデリジェンスなどを段階的に義務付けるEUの規則。
まず結論——制約になっているのは「正極前駆体」と「適格な原産地」の二層
実務上のボトルネックは二層です。第一層は物理供給。正極活物質とその前駆体(プレカーサ)、合成黒鉛負極、電解液・セパレータの一部で中国依存が高くなっています。韓国関税庁の貿易統計(HSコード〈品目分類コード〉単位・2026年時点の整理)を見ると、品目によって依存度が大きく異なります。例えばNCM(ニッケル・コバルト・マンガン系)水酸化物の中国依存は約98.7%、人造黒鉛で約66%、人造・天然混合黒鉛で約33.1%です。工程単位で「正極約8割」と一括した粗い集計は調査会社・報道経由の二次整理が多く、本稿では一次統計で確認できる品目別の依存を軸に見ます。第二層は制度適格。米国ではFEOCに該当する主体からの重要鉱物・電池部品比率が税額控除の可否を左右し、北米で稼ぐセルメーカーは「安い中国素材」をそのまま使えません。欧州では電池規則(Regulation (EU) 2023/1542)がカーボンフットプリント開示や将来のバッテリーパスポート、デューデリジェンスを求めます。物理と制度の両方が同時に滞ると、セルは動いても利益と受注が歪みます。
セル側の数字——LGESは売上があっても、北米立ち上げコストが利益を削る
LG Energy Solutionの2026年1〜3月期は、連結売上約6.6兆ウォン、営業損失約2,078億ウォンでした。北米の生産インセンティブ約1,898億ウォンを含んでも、ESS(定置用蓄電システム)拠点の立ち上げ費用や製品ミックス悪化が利益を押し下げた、と公式説明は整理しています。円筒形やESSの出荷は動き、受注残も積み上がる一方で、「作る場所を北米に移すコスト」が先に来る構図です。セル大手の地域別売上は北米・欧州の比重が政策感応度を決め、素材調達の適格性がそのまま営業利益の感応度になります。つまりこの制約は素材部門だけの話ではなく、セルメーカーのIR(投資家向け開示資料)の損益計算書にすでに現れている、という読み方が必要です。素材の遅れは、セルの値引きや顧客補償、稼働率の低さとして四半期ごとに再計測されます。
IRA(インフレ抑制法)が変えた調達——FEOCと材料コスト比率が部品表を監査する
米国インフレ抑制法(IRA)系の電池クレジットでは、Foreign Entity of Concern(中国など特定国の実効支配を受ける主体)からの調達比率が閾値を超えると、税優遇が取れません。ガイダンスと法改正の細部は更新が続きます。企業実務では、「特定外国事業体(中国等)が単独で議決権の25%以上を持つと対象になる」などの所有構造要件と、材料コストに占める非FEOC比率(Material Assistance Cost Ratioなどの考え方)を同時に見ます。結果として、韓国セルメーカー向けの正極工場でも、中国パートナーの持ち分を下げ、日本・欧米の商社や投資家を入れる再編が進みました。LG Chemの亀尾正極拠点では、豊田通商が25%を取得し、LG Chem 51%、旧中国側持ち分が低下したと公式・報道で記されています。不足していたのは「正極の量」ではなく「適格な正極の量」です。閾値は年を追って厳しくなる設計が多く、2026年時点のクリアが2030年まで自動で続く保証はありません。
EU電池規則——トレーサビリティが第二の壁になる
EU電池規則は、電池のライフサイクル全体にカーボンフットプリント開示、リサイクル含有、サプライチェーン上のデューデリジェンス、将来のデジタル・バッテリーパスポートなどを段階導入します。米国が「誰の資本か・どこで作ったか」を問うのに対し、欧州は「どれだけ追跡できるか・どれだけ低炭素か」を問います。韓国勢にとっては、中国素材を混ぜたBOMほど開示と監査の負荷が上がり、顧客OEM(完成品メーカー)の調達方針とも衝突しやすくなります。セルメーカーが欧州工場を持つほど、素材側も、原産地証明と排出データを自社で用意しなければなりません。支障が出ているのは港のコンテナではなく、データと証明のパイプラインです。商社・素材メーカーにとっては、スペックシートに加えて「追跡可能なデータパッケージ」が納品物になります。
正極——中国依存が最も高く、脱中国投資が最も集中する工程
正極は電池コストの最大項目の一つであり、依存度の数字も最も厳しい層です。韓国勢は、前駆体の国内・非中国化と、LFP(リン酸鉄リチウム)の量産立ち上げを並行しています。POSCO Future Mは光陽で前駆体工場を稼働させ、中国を迂回する正極チェーンを強調。グループはアルゼンチン塩湖や豪州リチウム、フィリピンなどからのニッケル調達と組み合わせ、カナダではGMとの合弁Ultium CAMも持ちます。公式発表では、浦項でLFP正極の専用工場を2026年5月起工・2027年量産(最大年産5万トン規模)とし、既存三元系ラインの一部をLFPへ転換して2026年後半から供給を始める計画です。L&Fは非中国勢としてLFP正極の量産を先行させる動きが報じられ、EcoPro BMはプレカーサレスLFPのパイロットを進めています。遅れていた前駆体工程に、設備と資本が流れ込んでいるのが2025〜2027年の実態です。ここが動けばセルの適格BOMの品目が増え、動かなければ北米の税額控除計画が四半期ごとに書き換わります。
負極・電解液・セパレータ——工程ごとに課題の中身が違う
負極(とくに合成黒鉛)は中国依存が高く、黒鉛関連の輸出管理とも連動してリスクが語られます。電解液は溶剤・塩・添加剤の組み合わせで、中国・日韓の分業が残ります。セパレータは韓国のSK IE Technologyなどが強い一方、中国勢の価格攻勢で日系の収益が圧迫されてきました。東レはハンガリーのセパレータ合弁持ち分をLG Chem側へ売却し、欧州製造から退きつつ日本・韓国での製造は継続すると発表しました。旭化成は北米で豊田通商向けにハイポア™のキャパシティライト契約を結び、2027年中ごろからシャーロット塗工設備などで供給を始める計画です。宇部マクセルも堺で原膜能力を段階的に約5割増やす方針を公表しました。同じ「4大材料」でも、正極は制度適格、セパレータは価格と立地再編、負極は原料地政学——課題の質はそれぞれ異なります。四材料を一枚の「脱中国」スライドでまとめると、投資の優先順位を誤ることになります。
脱中国は一直線ではない——JVの遅延と「中国内拡大」が同居する
現場では、脱中国投資と中国内拠点の維持・拡大が同時に起きます。北米・韓国でのFEOC対応が進む一方、中国内の大型セル・素材拠点は需要とコストで残ります。合弁の遅延や計画見直し(需要減・IRA不確実性を理由とするケース)も報じられ、投資のタイミング自体が読みにくくなっています。読み方を誤ると、「脱中国が進んだから依存は解消した」と早合点します。実際は、顧客向け(とくに北米適格)のラインと、中国内・価格競争向けのラインが二層化し、BOMが顧客ごとに分岐している段階です。課題になっているのは単一の工場ではなく、二層BOMを運用する組織能力です。経営会議で「中国比率」を議論する際は、一枚の平均ではなく顧客別・工場別に分けて見る必要があります。
日系素材・装置メーカーへの含意——どこに接点があるか
日本企業にとっての実務接点は四つです。①正極・前駆体の非中国ライン向けに、高純度ニッケル・リチウム化合物、添加剤、分析・品質装置を供給する。②セパレータでは、価格勝負の汎用品ではなく、耐熱塗工・高信頼性膜で北米・日系OEM向けにキャパシティを確保する(旭化成×豊田通商型)。③電解液・添加剤・バインダなど、トレーサビリティと低不純物が効くニッチで韓国セルの適格BOMに入り込む。④工程装置・検査・ドライ電極など、立ち上げコストに苦しむ北米工場の歩留まり改善に寄与する。逆に、中国依存のままの汎用正極・汎用セパレータで価格競争だけを挑むと、この土俵の外側で消耗します。豊田通商がLG Chem正極に資本参加したように、「素材×商社×適格性」のセットが競争単位になりつつあります。単品のカタログ営業より、顧客のFEOC監査表に自社品目を載せる営業のほうが通ります。
提案で起きやすい飛躍——「韓国バッテリー=完成品の勝ち負け」ではない
グローバルシェアの増減は重要ですが、ボトルネックの診断には足りません。シェアが落ちても、北米適格セルの利益は残ります。シェアが維持できても、中国素材比率が高ければ税額控除を失い、営業損失が続きます。同様に見落としやすいのが、「LFPに切り替えれば中国依存が消える」という誤解です。LFPも前駆体・リン酸鉄・リチウムの原産と資本構造が適格でなければ、同じ制約に直面します。「日系セパレータはもう終わった」という見方も実態とずれています。欧州撤退と北米確保が同時に起きており、地理を選別した再編だからです。見るべきは完成車の販売台数ではなく、適格BOMの充足率です。ここを誤ると投資先を間違えます。数字は工程別に取りましょう。
この先の分岐——適格素材を先に固めるか、価格で持つか
分岐の一つは、非中国正極・前駆体・負極の量産が2026〜2027年に計画通り立ち上がるかです。もう一つは、EU側のパスポート・開示要件が調達コストをどこまで押し上げるかです。日本企業が今取るべきは次の四点です。(1) 顧客セルメーカーの北米/欧州向けBOMで自社材料がFEOC・原産のどちら側にいるかを明示する。(2) 正極前駆体・LFP立ち上り・セパレータ再編の三つの投資カレンダーを四半期更新する。(3) 商社・OEMとのキャパシティライトや出資で「枠」を先に取る。(4) 中国向け汎用と適格向け高付加価値を別のP/L(損益計算書)で管理する。制約の所在が分かれば、押すべき工程も決まります。次の経営会議では、シェア表の隣に適格材料の充足率を置いてください。
読み解きのポイント ①制約は物理依存+制度適格の二層 ②LGES 2026年1Qは売上6.6兆ウォン・営業損失 ③IRAのFEOC/材料比率が正極の資本再編を強制 ④POSCO Future Mは前駆体とLFPで脱中国を具体化 ⑤日系はセパレータの地理選別と適格BOMへの食い込みが鍵
韓国バッテリー素材の供給網は、セルの生産能力ではなく、適格な正極前駆体と証明可能な原産地で立ち止まっています。追うべきはシェアの見出しではなく、FEOC対応の資本構造、LFP/前駆体の稼働時期、日系が入れる工程の三点です。そこまで分解できれば、次の四半期で更新すべき顧客と投資案件も見えてきます。制約を工程名で呼べるようになったとき、初めて投資判断が速くなります。
よくある質問
Q. どこに一番の制約がありますか?
正極とその前駆体の中国依存、および米国FEOC・EUトレーサビリティを同時に満たす適格素材の不足です。
Q. IRAは何を変えますか?
中国などFEOC由来の材料比率が高いと税額控除が取れなくなり、正極工場の出資比率や調達先の再編を強制します。
Q. 韓国企業は脱中国できていますか?
前駆体・LFP・北米拠点で進んでいますが、依存の解消は未完で、顧客向け適格ラインと中国内ラインの二層化が進んでいます。
Q. 日本企業の機会はどこですか?
適格正極チェーン向けの材料・装置、北米向けセパレータの枠確保、トレーサビリティ対応の添加剤・検査です。
主な出典
LG Energy Solution「2026 First-Quarter Financial Results」(2026年4月30日)/LG Chem・豊田通商の正極出資関連発表・報道/POSCO Future M公式(LFP正極工場・前駆体/光陽)/旭化成×豊田通商 セパレータ・キャパシティライト契約(2025年7月31日)/東レ ハンガリーセパレータ持ち分売却発表/宇部マクセル セパレータ増強発表/EU Battery Regulation (EU) 2023/1542/米国IRA/FEOC関連ガイダンス/韓国関税庁貿易統計(HSコード単位の中国依存・品目別)。工程単位の粗い集計(正極約8割等)は二次整理のため本稿の骨格からは外した。
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※2026年8月時点の情報をもとに作成しています。監修:森英朗(グループ代表)。
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