2025年5月12日、米国は「アメリカの患者に最恵国待遇(Most-Favored-Nation)の処方薬価格を届ける」大統領令を発しました。狙いは単純です。同じ薬について、米国が先進国の中で最も高い価格を払い続ける構造をやめ、比較可能な国の最低水準に寄せる——というものです。問題は、その「比較可能な国」の価格に日本の薬価が入り込み、米国売上が大きい日本の製薬企業と、日本での新薬上市の判断の両方に跳ね返ることです。制度の日付と定義から先に押さえ、どこで日本企業の数字に触れるかを逆算します。
まず結論——跳ね返る経路は「米国の売値」と「日本での上市判断」の2本
MFNが日本に効く経路は、少なくとも2本あります。第一は、米国での実効価格が参照国価格に引きずられ、米国売上比率の高い日本企業が収益計画を書き換える経路です。第二は、日本での低い収載価格が米国側の参照に使われる(または使われると企業が読む)ことで、日本への早期上市や効能追加をためらう——いわゆるドラッグ・ロスを増幅する経路です。後者は、欧州製薬団体連合会(EFPIA Japan)が厚労省の審議会に提出した資料でも「日本の価格が米国で参照される→米国採算悪化→日本での上市回避」という因果として整理されています。どちらも「米国の国内政策」だけでは閉じず、日本の薬価・上市判断に接続します。
2025年5月12日——大統領令が書いた「やらなければ規則でやる」
大統領令(Executive Order 14297)は、米国民が他の先進国より高い処方薬価格を払い続ける状態を問題視し、最恵国待遇価格へのアクセスを政策目標に据えました。実務上の要は、保健福祉長官(HHS)が30日以内に製造業者へMFN価格目標を伝達すること、進捗が不十分なら規則案の提示、外国からの輸入拡大の検討、反競争行為への執行などを、法の範囲で進めるよう指示している点です。つまり最初から「任意の交渉」と「強制的な制度設計」の両方が並んでいます。任意合意が進んでも、裏に規則化の選択肢が残っている、というのが読み方の出発点になります。タイトルにある「Delivering Most-Favored-Nation Prescription Drug Pricing to American Patients」は、政策の受益者を米国患者と明示しており、日本企業への配慮は設計上の主目的ではありません。効果が国境を越えるのは、参照価格と企業の最適反応を通じてです。
5月20日、HHSが示したターゲット——OECDかつ一人当たりGDPが米国の60%以上
HHSとCMSは2025年5月20日、大統領令を受けた具体的なターゲットを公表しました。製造業者には、後発品・バイオシミラー競争のないブランド製品について、米国価格を「経済的ピア国」の最低価格に揃えるコミットメントが求められます。ピア国の定義は、OECD加盟国のうち一人当たりGDPが米国の少なくとも60%に達する国——その中の最低価格がMFNターゲット、という形です。ここに日本が入り得る(または実務文書で参照国として扱われる)ことが、後の日本側議論の出発点になります。定義上「米国より貧しい国」ではなく「ある程度豊かな国の最低価格」を取るため、薬価が相対的に抑えられている先進国ほど、米国価格の引き下げ圧力の源泉になります。日本の薬価が「安い」と評価される局面では、その安さが米国側の交渉カードになる——この逆転を理解しておく必要があります。
数字で見る日本企業——武田の米国比率48%、アステラスも米国が最大地域
跳ね返りを語るには、先に「誰が米国でどれだけ稼いでいるか」を一次決算で押さえる必要があります。武田薬品工業の2026年統合報告書(2025年度)は、売上収益4兆5,057億円のうち国・地域別で米国48%、欧州およびカナダ25%、日本10%と示しています。米国が売上の約半分を占める企業にとって、米国実効価格の水準は事業計画そのものです。アステラス製薬の2026年3月期決算短信では、地域別売上収益のうち米国が9,402億円(前期比+8.5%)、連結売上収益は2兆1,392億円規模です。米国は単一地域として最大であり、主力のイクスタンジ等の収益構造が米国市場に強く結びついています。第一三共もエンハーツを軸に海外比率が高く、米国での価格・適応拡大が成長の中核です。これらの数字が示すのは、「日本の製薬会社」という括りでは感応度が測れない、ということです。米国比率が高い企業ほど、MFNの進捗をIRの前提に織り込む必要があり、国内売上中心の企業とは論点が分かれます。
若手が誤解しやすい一点——「日本の薬価が下がる」政策ではない
MFNは米国が自国患者の支払額を下げるための政策であり、日本の薬価改定そのものではありません。ただし効果が日本に閉じていないのは、参照価格の側に日本が入り、企業が「日本で安く出すと米国側の目標価格が下がる」と読むからです。米国研究製薬工業協会(PhRMA)は日本での会見で、米国薬価が日本薬価に連動する場合、日本で製品を出すことが全体収益をかえって下げる可能性がある、と懸念を示しました。誤解を避けるなら、「米国が安い国に合わせる」と「日本企業が上市順序と初回価格を変える」は別の現象で、後者が日本の患者アクセスに効く、と分けて考える必要があります。
日本が参照国になる——なぜドラッグ・ロスの話に接続するか
厚労省の審議会(薬価専門部会)に欧州製薬団体連合会(EFPIA Japan)が提出した資料は、米国MFN実現時の懸念として「日本の価格が米国で参照される→製薬会社の米国市場での採算悪化→米国薬価を維持するために日本市場での新薬上市を避ける、もしくは撤退を検討する→ドラッグロスの加速」という経路を図示しています。これは業界側の見立てであり、すべての品目で同時に起きるとは限りません。しかし業界団体の資料がこの経路を政府の審議会という公式の場に正面から提出していること自体が、日本の製薬業界が「対岸の火事」とは見ていない証拠です。厚労省自身も2026年度薬価制度改革の骨子で、米国MFN政策による日本への新薬導入の慎重化・ドラッグロスのリスクを踏まえた検討を明記しています。すでにドラッグ・ロス(欧米承認済みなのに日本未承認・国内開発未着手)は政策課題であり、参照国化がその増幅要因になり得る、というのが公式議論の枠組みです。患者・医療機関から見れば、問題は「米国の物価」ではなく「日本で使える新薬の遅れ」として現れます。企業IRの感応度と、現場のアクセス問題は表裏です。
任意合意と強制モデル——GENEROUS/GLOBE/GUARDという実装の枝
2025年11月6日、CMSは任意のMedicaid向け枠組み「GENEROUSモデル」(2026年1月開始)を公表し、製造業者と州が追加リベートでMFNに近づく経路を用意しました。参照国には日本も明記されています。並行してCMSは同年12月19日、Medicare Part B向け「GLOBEモデル」・Part D向け「GUARDモデル」という、より強制色の強い規則案を正式に提案しました(連邦官報公示2025年12月23日、パブリックコメントは2026年2月23日締切)。GLOBE/GUARDはいずれもCMS自身が命名した制度案であり、単なる報道上の通称ではありませんが、2026年8月時点で最終規則は未確定です。ホワイトハウスは2026年4月23日、大統領令後に書簡を送った主要製造業者17社すべてと任意のMFN価格合意に達した(ブランド薬市場の86%相当)と発表しています。日本企業にとっては、「どのチャネル(Medicaid/Medicare/直接販売)で、いつ、どの製品がターゲット化されるか」が収益感応度を決めます。枠組みが任意でも、競合他社が先に合意すれば相対圧力は上がります。アステラスは2026年、Medicaid向けGENEROUSモデルへの参加を申請したことを自社広報が認めており、日系大手も「様子見」だけで済まない局面に入りつつあります。個別社の参加状況は変動するため、四半期ごとに一次発表を確認する運用が現実的です。
製薬以外への波及——CRO・原薬・包装が読むべきシグナル
MFNの一次効果は製造販売業者の米国実効価格ですが、二次効果は開発・製造の立地と受託需要に及びます。価格合意とセットで米国内製造・研究開発への投資コミットメントが求められる事例が報じられており、オンショアリングが価格政策と同時に動く構図です。原薬(API)・製剤・包装・治験(CRO)の受託企業にとっては、①米国向けの価格交渉が長期化する新薬の開発スケジュール、②日本上市の遅延・回避によるアジア治験需要の変化、③米国内生産シフトに伴う拠点投資——の3点を、顧客企業のパイプライン説明と突き合わせて見る必要があります。薬価の話は「製薬会社だけのIR」ではなく、サプライチェーンの需要地図を動かす話でもあります。
日本企業が置くべき前提——単一シナリオに賭けない
実務で置くべき前提は次のとおりです。第一に、米国売上比率が高いほど、MFNの進捗(任意合意か規則化か)を四半期ごとに更新する。第二に、日本での初回収載価格・効能追加のタイミングが、米国側の参照議論でどう語られるかを監視する(国内薬価交渉と海外IRを分断しない)。第三に、ドラッグ・ロスが加速する場合と、日本側が薬価維持・評価を厚くして上市を守る場合の両方を、事業計画の分岐として持つ。MFNは「米国が勝つ/日本が負ける」の単純ゲームではなく、価格・上市順序・製造立地が同時に動く複合ゲームです。経営会議向けには、「米国価格がX%下がった場合の営業利益感応度」と「主力パイプラインの日本上市が1〜2年遅れた場合の機会損失」を別表で持つと、議論が抽象論から外れます。
この先の分岐——任意合意の定着か、規則化と関税・通商との連動か
分岐の一つは、任意のMFN合意が業界標準として定着し、規則化が後退するかどうかです。もう一つは、価格政策が関税・通商措置や国内製造要求とさらに結びつき、企業の米国投資と日本上市判断がセットで動くかどうかです。日本企業・部品/受託側が今できるのは、大統領令とHHS定義という一次文書を共有したうえで、自社(または主要顧客)の米国売上比率と日本上市パイプラインを同じ表に載せることです。数字のない懸念論は止まりませんが、比率と経路のある議論なら経営判断に使えます。
読み解きのポイント ①2025年5月12日大統領令EO 14297がMFN薬価の起点 ②HHSターゲットはOECDかつ一人当たりGDPが米国の60%以上の国の最低価格 ③武田の米国売上比率は48%(2025年度) ④跳ね返り経路は「米国実効価格」と「日本上市回避(ドラッグ・ロス)」の2本 ⑤CRO・原薬・包装も需要地図の変化として読む
米国のMFN薬価は、米国患者の負担を下げる国内政策であると同時に、参照価格と上市順序を通じて日本の医薬品アクセスと企業収益に接続する国際政策でもあります。追うべきは見出しの「薬価引き下げ」ではなく、定義・合意の進捗・自社/顧客の米国比率・日本パイプラインの4点です。そこまで分解できれば、次の四半期で何を更新すべきかも見えてきます。政策の名前に惑わされず、経路と比率で読む——それが海外起点の読み方です。
よくある質問
Q. MFN薬価とは何ですか?
米国が、比較可能な先進国における同じ薬の最低価格水準に、自国の処方薬価格を揃えようとする政策です。2025年5月12日の大統領令が起点です。
Q. なぜ日本企業が影響を受けるのですか?
武田のように米国売上が売上の約半分を占める企業では、米国実効価格の低下が直接効きます。また日本の薬価が参照に使われると、企業が日本上市をためらう経路も指摘されています。
Q. 日本の薬価制度そのものが変わるのですか?
MFNは米国の政策です。ただし参照・上市判断を通じて日本の新薬アクセスに影響し得るため、国内薬価改革の議論と同時に見る必要があります。
Q. 製薬会社以外は無関係ですか?
いいえ。米国内製造シフトや日本上市の遅延は、CRO・原薬・包装など受託・部材側の需要に波及します。
主な出典
White House「Delivering Most-Favored-Nation Prescription Drug Pricing to American Patients」(2025年5月12日、EO 14297)/GovInfo DCPD-202500591/HHS Press Room「HHS, CMS Set Most-Favored-Nation Pricing Targets to End Global Freeloading on American Patients」(2025年5月20日)/CMS「GENEROUS Model」「GLOBE Model」ページおよびRFA・NPRM(2025年11月・12月)/White House Fact Sheet(2026年4月23日、MFN合意17社達成)/武田薬品「タケダ2026年統合報告書」(米国売上比率48%)/アステラス製薬「2026年3月期 決算短信」(地域別売上)/欧州製薬団体連合会(EFPIA Japan)「グローバル薬価政策の変革期における戦略転換」(厚労省審議会提出資料、2025年11月26日)/厚生労働省「令和8年度薬価制度改革の骨子」/日本経済新聞(PhRMA会見報道、2026年)。
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※2026年8月時点の情報をもとに作成しています。監修:森英朗(グループ代表)。
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