2026年4月、サムスン家は故・李健熙氏の遺産にかかる12兆ウォンの相続税を5年がかりで払い終えました。同じころ、韓国の新世界グループは2024年10月にきょうだいで会社を分けると発表しましたが、2026年4月29日時点でも公正取引委員会の「同一人」指定は変わっていません。インドのゴドレージ家は2024年4月に127年続いた家業を二つに割り、タイのTCCグループ創業者は2025年5月、保有株式を5人の子に均等に分けました。オーナー一族の交代というと社内の話に聞こえますが、実際には契約の相手方法人や保証人が入れ替わる出来事です。取引先にこうした企業を持つご担当者様に向けて、一次開示だけを頼りに何が起きたのかを整理します。
「12兆ウォン」を5年かけて払い終えた日——サムスン家、2026年4月
サムスングループの故・李健熙(イ・ゴンヒ)先代会長は2020年10月に死去し、株式や不動産など約26兆ウォンの遺産を遺族に残しました。遺族(李在鎔サムスン電子会長、洪羅喜リウム美術館名誉館長、李富真ホテル新羅社長、李叙顕サムスン物産社長)は2021年4月に相続税を申告し、韓国の延納制度(連年分割納付)を使って5年間・6回に分けて納付する道を選びました。サムスン電子は2026年5月3日、この納付が完了したと公式に発表しています。総額は約12兆ウォンと推定され、韓国の相続税納付額としては史上最大です。興味深いのは払い方の違いで、洪氏と二人の娘は保有していたサムスン電子・サムスン物産などの株式を段階的に売却して資金を作った一方、李在鎔氏は株式を1株も売らず、配当金と個人の信用貸出だけで納税しました。結果として李氏のサムスン電子株保有比率は0.70%から1.67%へ、サムスン物産は17.48%から22.01%へ、むしろ相続前より高まっています。
相続税を払う5年間、サムスン電子の大型M&Aが止まっていた理由
サムスン電子が2017年にハーマン・インターナショナルを買収して以来、長期間にわたり数千億円規模の経営権取得型M&Aから遠ざかっていたことは、韓国の投資業界でたびたび話題になってきました。この期間は、遺族が相続税の分割納付を続けていた2021〜2026年と重なります。状況が動いたのは納税完了が視野に入った2025年からで、同年5月には欧州の空調機器大手フラクト・グループの買収を発表し、7月には米国のデジタルヘルス企業ジールスを、12月には子会社ハーマンを通じてドイツZF社の先進運転支援システム(ADAS)事業を買収する契約を結びました。さらにサムスン電子は2026年3月19日に開示した「企業価値向上計画」の中で、先端ロボット・医療機器・車載電子・空調の各分野で「意味のある規模」のM&Aを進めると表明しています。相続税という資金需要が解消に近づくにつれて、対外的な投資判断が積極化したという時間的な符合は、取引先の資本配分リスクを見るうえで参考になります。
2024年10月30日、新世界グループがきょうだいで分かれた日
韓国の新世界グループはもともと1つの会社で、2011年にイーマート(総合スーパー)が新世界(百貨店)から人的分割されて以来、長男の鄭溶鎮氏がイーマートを、長女の鄭裕慶氏が百貨店部門を率いる「きょうだい経営」を続けてきました。2016年には互いが持つ相手方の株式を交換し、持ち分をそれぞれの事業に寄せています。この体制が正式な「分離」として表に出たのが2024年10月30日で、新世界グループは定期人事で鄭裕慶氏を新世界(百貨店)の会長に昇格させ、イーマートと新世界の系列分離を公式に発表しました。翌2025年には、両社の株式を10%ずつ持っていた母親の李明熙総括会長が、イーマート株を鄭溶鎮氏に売却し、新世界株を鄭裕慶氏に贈与して、自身の持ち分をすべて整理しています。
「同一人」はまだ変わっていない——公正取引委員会が2026年4月に確認したこと
韓国の公正取引委員会は毎年5月1日前後に、資産総額が一定規模を超える企業集団を指定し、あわせてその集団を実質的に支配する「同一人」(総帥に相当)を指定します。同一人に指定された個人・法人には開示義務や特殊関係人への利益供与規制がかかるため、誰が同一人かは取引先の実務上も無視できない情報です。新世界グループについては、公正取引委員会は2025年5月1日の指定でも、2026年4月29日に発表した2026年度の指定でも、同一人を李明熙総括会長のまま維持しました。2025年の発表時点で公正取引委員会自身が「新世界など一部の企業集団では同一人の支配力が移っていく過程が見られるが、なお既存の同一人が実質的な支配力を持っていると判断した」とコメントしています。つまり2024年10月の分離発表、2025年の株式整理という2つの節目を経ても、韓国政府の公式な支配者認定は1年半以上動いていません。会社側の発表と当局の認定の間には、これだけの時差が生まれ得るということです。
| 時点 | 出来事 | 公式な「支配者」の扱い |
|---|---|---|
| 2024年10月30日 | イーマート・新世界の系列分離を会社が公式発表 | 同一人はなお李明熙総括会長 |
| 2025年4〜5月 | 李総括会長が保有株をイーマート・新世界に整理(贈与・売却) | 同一人はなお李明熙総括会長 |
| 2026年4月29日 | 公正取引委員会が2026年度の企業集団・同一人を指定 | 同一人はなお李明熙総括会長(変更なし) |
2024年4月30日、127年目のゴドレージ家が引いた線
インドのゴドレージ・グループは1897年創業で、2024年で127年目を迎えていました。同年4月30日、創業家4系統(アディ・ゴドレージ氏、ナディア・ゴドレージ氏、ジャムシード・ゴドレージ氏、スミタ・クリシュナ氏)は「家族間和解合意(Family Settlement Agreement)」に署名し、グループを2つに分けると発表します。上場5社(ゴドレージ・インダストリーズ、同コンシューマー・プロダクツ、同プロパティーズ、同アグロベット、アステック・ライフサイエンシズ)はアディ氏とナディア氏の系統が率いる「ゴドレージ・インダストリーズ・グループ(GIG)」に、非上場のゴドレージ・アンド・ボイス(航空宇宙・防衛・建材など幅広い事業を持ち、ムンバイに広大な土地資産を保有)はジャムシード氏とその姪ニリカ・ホルカー氏が率いる「ゴドレージ・エンタープライズ・グループ(GEG)」に分かれました。ここで押さえておきたいのは、両グループとも「ゴドレージ」というブランド名を引き続き使う点です。社名だけを見ていると、契約の相手方が実はどちらのグループに属する法人なのか分からなくなります。
発表から完了まで79日——インド公正取引委員会の承認を挟んだ理由
ゴドレージ家の合意は発表してすぐに法的効力を持ったわけではありません。インドでは企業結合や持ち分再編が競争法上の「コンビネーション」に該当する場合、公正取引委員会に相当するインド競争委員会(CCI)の承認が要ります。CCIは2024年6月18日、家族間和解合意に基づく持ち分再編を承認しました。発表から49日後です。さらに実際の株式移転が完了したのは同年7月18日で、証券取引所への開示によると、ゴドレージ・インダストリーズ(GIL)の株式20.84%がGIG系の家族に移転し、アディ氏・ナディア氏側の保有比率は64.66%になりました。発表の4月30日から数えると79日が経過しています。つまり4月末の報道を見て「もう分かれた」と判断し契約書の当事者名を確認しないまま取引を続けていた場合、実際に株式移転が終わる7月半ばまでの間、法的な当事者が確定していない期間が存在したことになります。
2025年5月26日、タイの創業家はなぜ株式を5等分したのか
タイのTCCグループを率いるチャルーン・シリワッタナーパクディー氏は2025年5月26日、傘下の持株会社サッタ・サップ9社の全株式を、5人の子に均等な割合で譲渡したとタイ証券取引所(SET)に開示されました。サッタ・サップ9社はビール・飲料のベルリ・ジャッカー(BJC)、不動産のアセット・ワールド・コーポレーション(AWC)、タイ・グループ・ホールディングス(TGH)という3つの上場企業を間接的に支配する会社です。開示文書によれば、5人が均等に株式を受け取ることで、誰か一人がサッタ・サップ9社を単独で支配する形にはならず、タイの資本市場規則が求める強制公開買付け(TOB)の適用対象にも当たらないとされています。各社は経営体制や取締役会構成に影響はないと説明しました。チャルーン氏はこれに先立つ2025年1月にフレイザー・アンド・ニーヴの会長職を退き、2月にはフレイザーズ・プロパティーの会長職も退いており、株式の承継は一度の出来事ではなく、複数年にわたる一連の手続きとして進んできたことが分かります。
承継期に共通するパターン——止まる新規案件と、進む選別
3カ国の事例を並べると、承継の期間中に「すべてが止まる」わけではないことが見えてきます。止まりやすいのは、新規の大型M&Aや資本を伴う新しい賭けです。サムスン電子の場合、相続税の分割納付が続いた5年間は経営権取得型の大型買収がほぼ途絶え、納税完了が近づいた2025年から再び動き出しました。一方で、事業の選別や再編そのものは承継期でも止まりません。新世界グループはきょうだいで担当領域を分ける再編を2011年から段階的に進め、2024年に公式発表という形で表に出しました。ゴドレージ家も「和解合意」という形で、どの事業をどちらの系統が持つかを先に決め切っています。つまり承継期の企業に対しては、「大きな新規投資は慎重になりやすい」という前提と、「担当領域の線引きは先に進んでいる」という前提を、同時に持っておく必要があります。どちらか一方だけを見ていると、取引先の意思決定の速さを読み違えます。
日本企業が見落としやすい2つの取り違え
一つ目は、ブランド名が変わらないことを理由に「契約主体も同じはずだ」と考えてしまう取り違えです。例えばゴドレージのケースでは、GIGとGEGという別々の法人グループが、どちらも「ゴドレージ」という同じブランドを使い続けています。ブランド名だけで契約書の当事者を確認した気になっていると、実際にはどちらの法人と取引しているのか分からないまま取引が続くことになります。二つ目は逆方向で、「公的機関の指定が変わっていないから、経営の実態も変わっていない」と考えてしまう取り違えです。新世界グループでは、公正取引委員会の同一人指定が変わらないまま、鄭裕慶氏は2024年10月の時点ですでに百貨店部門の会長として独立した意思決定を行っています。政府の指定はあくまで年に一度の行政手続きであり、現場の経営権限が実際にいつ動いたかとは別の話です。契約実務では、ブランドの継続と当局の指定という2つの「変わっていないように見えるもの」を、そのまま「経営実態が変わっていない証拠」として扱わないことが重要になります。
注意 同じブランド名を掲げる法人が2つに分かれている場合、既存の契約書・発注書に書かれた社名だけでは、どちらの法人と契約しているか特定できないことがあります。特に商標・ロゴの使用契約が両グループに残っているケースでは、取引窓口の担当者に直接、登記上の契約当事者を確認する必要があります。
契約の相手方法人と保証人、いつ何を確認するか
ここまでの事例から、契約の相手方法人・保証人を見直すべきタイミングは、大きく3つの節目に整理できます。
見直しの3つの節目 ①家族間の合意・分離が公表された時点(まだ法的効力は発生していない可能性がある) ②競争当局・公正取引委員会など規制当局の承認・指定が出た時点(法的な区切りに近いが、当局の指定変更にはさらに時間がかかることがある) ③登記や証券取引所への開示で株式移転・法人分割の完了が確認できた時点(この時点で初めて相手方法人が確定する)
実務でまず確認したいのは、既存の契約書に記載された当事者の商号・登記番号が、直近の会社登記情報(韓国なら法人登記簿謄本、インドならROC=会社登記局の記録、タイなら商務省DBDの株主名簿)と一致しているかどうかです。あわせて、親会社保証やコンフォート・レターを付けている場合は、保証人として名前を挙げている法人が分離後もその契約を引き継ぐ法人かどうかを、保証状の文言に立ち返って確認します。分離前の法人を保証人としたまま契約を更新していないと、いざというときに保証の効力が及ぶ範囲があいまいになりかねません。
契約実務でよく聞かれる3つの質問
契約書に「チェンジ・オブ・コントロール」条項がなければ、何もできないか
条項がなくても、譲渡承諾条項や取引基本契約の当事者確認義務を根拠に、相手方に最新の登記情報の提示を求めることは可能です。まずは条項の有無にかかわらず、承継のニュースが出た時点で相手方に登記事項証明書に相当する書類の提出を依頼するのが実務的な出発点になります。
ブランド名が変わらない場合、通知は不要か
不要ではありません。ゴドレージの例が示すとおり、ブランドが同じでも法人格は分かれます。ブランド名の継続を理由に確認を省略すると、契約更新のタイミングでどちらの法人と結んでいるのか分からなくなるおそれがあります。
公的機関の指定が変わるまで待てばよいか
待つべきではありません。新世界グループの例では、会社の発表から1年半が経っても公正取引委員会の同一人指定は変わりませんでした。政府の年次指定を待つのではなく、証券取引所への適時開示や登記情報など、会社自身が出す一次情報を追う方が早く実態をつかめます。
承継のニュースを見たとき、最初に開く3つの窓口
取引先の一族に承継のニュースが出たときにまず開くべき窓口は3つです。1つ目は当該国の証券取引所・登記当局の適時開示システムで、韓国なら金融監督院の電子公示システム(DART)、インドならBSE・NSEの開示ページ、タイならSETの開示ページに、株式移転の実施日と対象法人が具体的に載ります。2つ目は競争当局・公正取引委員会の承認記録で、インドのCCIや韓国の公正取引委員会のように、企業結合や同一人指定を審査した記録が公開されています。3つ目は格付会社の評価コメントで、承継に伴う支配構造の変化をリスク要因として指摘している場合、契約の相手方の信用力を見るうえで参考になります。次にどの財閥で同一人が入れ替わるかは、韓国であれば毎年5月1日前後の公正取引委員会の発表を追えば分かります。会社の発表を見た時点で終わりにせず、この3つの窓口まで開いて確かめる習慣が、契約相手を見誤らないための最短ルートです。
主な出典
サムスン電子公式発表・報道(東亜日報2026年4月5日/2026年5月3日付、ヘラルド経済2026年5月3日付、韓国M&A経済新聞、CEOスコアデイリー2026年4月3日付、ザベル2026年6月24日付)/連合ニュース「新世界グループ、イーマート・百貨店の系列分離を公式発表」(2024年10月30日)/ハンギョレ新聞・マネートゥデイ・イーコリアニュース(2025年4〜5月、李明熙総括会長の持ち分整理)/韓国公正取引委員会「2025年度・2026年度公示対象企業集団及び同一人指定現況」(2025年5月1日・2026年4月29日)/Godrej Enterprises公式プレスリリース(2024年4月30日)/Reuters「India’s Godrej family agree to split conglomerate into two」(2024年5月1日)/BusinessToday・Economic Times(インド競争委員会承認2024年6月18日、株式移転完了2024年7月18日)/Stock Exchange of Thailand向け開示(Berli Jucker・Asset World Corp・Thai Group Holdings、2025年5月26日付)/Bloomberg「Thai Billionaire’s Stock Transfers Raise Succession Questions」(2025年5月27日)。数値・制度は各開示時点のもので、その後の追加開示により変動する可能性があります。
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※2026年8月時点の情報をもとに作成しています。監修:森英朗(グループ代表)。
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